昭和時代初期、ごみ焼却義務付け

2011-10-24

ごみ焼却場の建設では大阪市に先を越されたが、昭和時代に入ってから、東京府でも町のレベルでごみの焼却処理を行うようになってきた。一九二八年年から東京府内三か所に一日当たり約三〇トンのごみを処理できる焼却炉を設置。また、翌年には深川に当時としては日本最大の、一日当たり約二六〇トンのごみを焼却できる深川塵芥処理場第一工場が竣工した。この工場では、コンベアを通るごみから手選別で有価物を回収してごみの焼却を効率的に行った。これによる有価物の回収量は、収集したごみの量の約九〇パーセント程度だったという。一九三〇年には自治体に対してごみの焼却が義務付けられたが、焼却炉の建設には多額の費用が必要なため、東京市や大阪市のような大都市以外では焼却炉の建設は容易でなかった。一九三三年に東京市の深川塵芥処理場周辺の住民から、焼却場の高さ五〇mの煙突から出る煤煙について苦情が出た。東京市は、この焼却場でのごみの焼却量を減らして露天焼却を増やすことで対応したが、一方では焼却方法の改善とばいじんの除去方法について検討を始めた。その後、日本は第二次世界大戦へ突入し、一九四五年の終戦まで、ごみ処理どころではなくなったのである。